116,500部発行
2022年5月6日
通巻第308号
年間郵送購読料3,000円
発行責任者/佐藤 節子
発行/(有)稲毛新聞社 〒263-0043千葉市稲毛区小仲台2-5-2 TEL043-256-4414(代)FAX043-256-4494
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2人の坂東武者と源頼朝
川村 文彦
権力争いは歴史のつきものだが朝廷内の権力争いから武家の対立へ。平清盛が源義朝に勝って武家の時代へと。その後負けた義朝の息子の頼朝が幕府を開き実権をにぎる。
今NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」が放映されている。その頼朝が幕府を開くにいたったのは千葉県の2人の坂東武者のチカラによるところが大きい。ひとりは上総広常でもうひとりは千葉常胤である。2人はおじいさんが兄弟だったと言う又従兄弟の関係である。テレビでは上総広常を佐藤浩市が豪放に演じており無骨で一本気な千葉常胤を岡本信人が演じている。千葉市では千葉常胤が有名であるが、今回の放映により上総広常が全国的にクローズアップされたのではなかろうか。
もっとも当時を考えると千葉は地方名であり上総は国名であるので格から言ってしかたがないのかもしれない。どちらも「保元の乱」「平治の乱」と源義朝の従者として従っている。上総広常は気の毒に頼朝の命令で梶原景時に殺されてしまうが、千葉常胤の方は上総・下総と両方手に入れ息子の代と全国にもらった領地で繁栄させていき、豊臣秀吉の小田原城攻めまで千葉氏は続く。(千葉市発行千葉常胤公ものがたり)
さて源頼朝は伊豆の伊東からその後に、熱海の左斜下、蛭ケ小島(伊豆の国市)に流されるが、20年後に伊豆の豪族北条氏の後ろだてで1180(治承4年)8月17日に挙兵する。最初の相手は平家方の武将山木兼隆で相手を討つが6日後の8月23日の石橋山(小田原の南西)では東から来た平家方の大庭景親軍3千、これに対し頼朝軍は三浦一族の援軍が間に合わず3百人で、その上、西から来た伊藤祐親軍に挟み撃ちにされてしまう。
24日箱根山に到着、箱根山の別当(寺の事務職の長)の弟の永実宅に入る。その後8月28日真鶴岬より船で安房に逃げるのだが途中(26日〜27日頃か)しとどの窟(真鶴町)で梶原景時に見つかるが彼が見逃したと言う話は有名である。
吾妻鏡(鎌倉時代鎌倉幕府にいた人々によって編集された鎌倉幕府の歴史をまとめた書物)には次のように書かれている。
廿八日。戊申(中略)武衛自土肥真名鶴崎乗船赴安房国方給。実平仰土肥住人貞恒粧小舟云々。(角川文庫西田友広編吾妻鏡・図も)
およそ70キロから80キロの海、土肥の漁師等であれば当然海流・潮流を知っているであろうからその流れを利用して房州へ渡ったと考えられる。
上陸地点については安房の洲崎と言う意見をもつ人もいる。
船もだがその大きさは未定だが比較的大きな船であるようだが2漕とも考えられる。ポプラ社発行のコミック版「源頼朝」では遣唐使船のような絵になっている。途中で乗り換えたと考えることも出来るかもしれない。頼朝の死後幕府の中核にいた13人による合議制が導入されたが13人が話し合ったと言う記録は残っておらず(普遊社北条義時の真実100)メンバーによる権力争いが激しく最後に残るのが北条氏であり義時で、残念ながら千葉氏は13人の中に入っていない。
吾妻鏡では常胤を賞賛しているが、広常の方が参戦に積極的であったのに広常を貶めている。これは子孫が存続した千葉氏が編集時に功績を主張した(元木泰雄中公新書源頼朝)結果と思われる。上総広常はいつ生まれたかわかっていない。共に千葉県が生んだ英雄である。
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