バラバラで発見された無惨な下山総裁の遺体 北海道から九州まで日本全国の鉄道を統轄する国鉄総裁・下山定則氏が怪死?した大事件。戦後の混乱期に起きた事件とはいえ、歴史的事件だったが死因≠ヘナゾのまま風化≠オてしまった。 この稿は事件そのものの、今まで知られなかった事実=A隠された、いくつかの事実≠ノついて最後にふれる。まず前月号に続いて、凄惨な現場の状況から再現しよう。 脳ミソがなくなった皿≠フような頭蓋骨、腸が雨で洗い流された腹部らしきものの一部。遺体はこれ以上、筆にできないような、凄惨なバラバラになっていた。「下山総裁にまず間違いない」と彼が確信を持ったのは顔らしきもの≠フ発見だった。K記者は下山総裁に何回か会っていた。下山総裁の顔の特徴は、目尻が垂れ下がった、笑うと優しい顔になることだった。その顔(顔だったものと言ってもいい)を発見したのである。その顔の3分の1は失われていたが、目尻は下山総裁そのものを示していた。「よし、間違いない」。K記者は綾瀬駅に向かって駆け出した。 ここで彼はもうひとつ大きな発見をするのである。雨に打たれてしわくちゃ≠ノなっていたが、背広の上衣があった。拾い上げて胸のポケットを探ると名刺が出てきた。名刺には「国鉄総裁・下山定則」を書かれていた。「遂にやったぞ!」。 国鉄綾瀬駅の駅長室に飛び込み、鉄道電話で有楽町駅に「今や遅し」と待機していた仲間の記者に、見てきた現場の状況を伝えるK記者の声は、興奮に震えていた。テレビなどなかった頃の話である。事件の速報はラジオと新聞社が発行する号外に限られていた。 新米記者≠フ第1報後、警視庁記者クラブの事件記者たちが、さらに詳報を速報した。予想すらできなかった大事件≠伝える号外の鈴の音≠ェ早朝の町にこだました。事件はK記者の新聞社の圧倒的勝利≠セった。警視庁のH警部と、社会部のSデスク(副部長)の信頼関係で結ばれた結果の、あまり例のない見事な特ダネ≠セった。あの文字通りバラバラ≠ノなった下山総裁の遺体。それから何年にもわたって続けられたのが、朝日新聞と毎日新聞で展開された、下山総裁の自殺説・他殺説である。 その真相は歴史の彼方≠ノ消え去ってしまったが、これから書くことは、当時も報道されなかったし、他殺説・自殺説に直接関与しない、本当の意味の秘められた話≠フいくつかを紹介することである。 アメリカの総司令部が、国鉄に対して4万人余という、大量従業員の首切り≠押し付けてきたのは、国鉄経営の合理化という理由を表面にしていたが、真の狙いは戦後日本の労働界の主力として、常に労働運動をリードしてきた国鉄労働組合の弱体化を狙ったものだった。それだけに、GHQと国鉄労組の間に立った下山総裁の悩みは、余人には知られないほど深かったと言っていい。 下山総裁は戦時中、国鉄職員とともに戦地に行くという苦労もしている。ビルマ戦線の鉄道を整備するため、国鉄職員を率いて仕事をした経験を持っている。その下山総裁が、GHQの指令とはいえ、多くの部下を首切る≠アとが、いかに辛かったかは、想像するに余りある。 下山総裁の、他人には想像もできない内面の悩み、誠実な人柄だっただけに、その奇怪な死を遂げる前の、今までに明らかにされてこなかった事実のいくつかを紹介しよう。 下山総裁の死が自殺だったか他殺だったかに直接ふれるものではない。下山総裁の死をめぐってはなぜ?≠ェ、あまりにも多かった。それを1つ1つ取り上げて、稲毛新聞の読者の判断≠フ材料にするのも、今ではあまり意味がない。 まず第1は、国鉄をこよなく愛し、国鉄とともに一生を歩んできた下山総裁が、なぜその愛する鉄路を自らの血≠ナ汚したかである。 次号では、そのなぜ?≠1つ1つ紹介して、この戦後最大の事件の締めくくりとしたい。(つづく)