130,000部発行
2021年2月5日
通巻第293号
年間郵送購読料3,000円
発行責任者/佐藤 正成
発行/(有)稲毛新聞社 〒263-0043千葉市稲毛区小仲台2-5-2 TEL043-256-4414(代)FAX043-256-4494
想い出の人
櫻井俊雄物語(8)
エッセイ 河邊伊知郎
今月の4コマ漫画
随筆 吉成庸子
短編小説 吉成庸子
市民ガイド
今月の人
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想い出の人
歌手の木村友衛さんは昭和56年に「浪花節だよ人生は」を発売。友衛節と曲の良さが話題となり、第26回日本レコード大賞特別賞を受賞。昭和42年に歌謡曲の歌手としてテイチクレコードよりデビュー「浪花節だよ人生は」でヒットし2百万枚売り上げた▼小生が木村友衛さんと出会ったのは柏市で「東葛毎日」という新聞を発行していた時である。我孫子の春日やの中村国夫さんが私も協力するから「木村友衛ショー」を東葛毎日の主催でやってくれないかという話であった▼当時は「浪花節だよ人生は」が大流行しており、木村友衛さんの話では千葉新聞社の宇野社長のお世話で千葉県文化会館でもショーを実施して大盛況だったので是非お願いしたいということになった▼実はそれ以前に千昌夫ショーを柏市で実施したことがあるが、木村さんは「浪花節だよ人生は」の一曲のみ。それに比べ千昌夫は「北国の春」、「星影のワルツ」などたくさん持ち歌があり訴求力があった。少し抵抗感があったが毎日新聞系販売店の支援もあり実施することにした▼開催するにあたり入場券やポスターなどの印刷、入場料金設定など面倒な作業を消化しつつ、何とか「木村友衛ショー」を柏市民文化会館で開催することができたが収支はトントンであった▼木村さんは喜んでくれたがその後、「馬鹿は死ななきゃ治らない」という曲を歌ったがあまりヒットしなく、福島県内で暮らしているという噂を聞いたが消息は不明である。(正)
エッセイ 正体見たり新型コロナ
「痴呆爺のクオーターライフ」 河邊 伊知郎
第一章・自然免疫と獲得免疫
体内には自然免疫と獲得免疫がある。自然免疫は人類が基礎的に持っている免疫システムでマクロファージや樹状細胞、好中球、NH細胞などである。それらが侵入した敵を発見すると、まずは好中球マクロファージといった細胞が細菌やウイルスを食べるようにやっつける。そして樹状細胞を活性化させます。次に樹状細胞は病原微生物を食べて消化し、その成分を細胞の表面に出し、詳細な情報をT細胞と呼ばれるリンパ球に提示します。
詳しい情報を知ったT細胞が敵を集中攻撃したり、抗体を作るB細胞であるリンパ球に指令を出し、抗体を作らせたりします。この流れは「自然免疫→樹状細胞→獲得免疫」となります。
第二章・コロナはウイルス?細菌?
ウイルスと細菌は大きさに違いがあり、細菌は顕微鏡で見えますがウイルスは電子顕微鏡で無ければ見えません。
ウイルスの大きさは不織布マスクの穴の50分の一で、マスクは軽々と通り抜けてしまいます。そして空気中に無数漂っています。
ウイルスは感染力のある微生物の一つで、肉眼では見えない細菌や原虫などです。ウイルスは自分では増殖能力が無く細胞を持たない構造で、他の生物の細胞を利用して自己を複製させます。遺伝子を持っているので生物的な面と非生物的な面をもって、人類など生物の細胞に入り込み病原体となる場合があり、生命誕生とともに共生してきました。コロナウイルスもインフルエンザも太古から生き物と共生をし、変異を繰り返してきました。
二十世紀には新興感染症と言われるスペイン風邪、エボラ出血熱、エイズ、腸管出血性大腸菌感染症が発生し二十一世紀にはSARS(重症急性呼吸器症候群)や新型コロナウイルスによる肺炎として、現在は世界中がパンデミックに至っています。
ウイルスは、DNAウイルスとRNAウイルスに大別され、DNAウイルスは突然変異を修復する機能を持っているので変異しにくいが、RNAウイルスは増殖過程で誤ったコピーが発生しやすく、常に変異と増殖を繰り返し、徐々にマイナーチェンジしながら生き延びてきた。増殖率も高く、一個のウイルスが一日で百万個以上に増殖する。これが新型コロナウイルスだ。
インフルエンザもコロナも変異を繰り返してきた風邪と言える。
一度かかれば免疫が出来て、同じ風邪にはかからないが、変異した新しい風邪にはかかってしまうのがこの原理だ。
第三章・日本はなぜ死 者数が少ない?
コロナは元々無症候の風邪で、かかったのが分からないうちに治ってしまったりする。突然、死に至ったタレント志村けん、彼はヘビースモーカーで間質性肺炎を患っていた、岡江久美子も抗がん剤治療を行っていたことは諸君の知ることだ。ここでトリックが発生する。世界保健機関WHOは、どんな場合でもコロナ陽性であれば合併症としてコロナで死亡と報告すべしと世界に指令を出した。実際の死者数と感染による純粋な新型コロナ肺炎が原因での死者数に違いが出てしまう。そしてショッキングな映像が世界を巡った。肺血栓症肺炎だ。原因はサイトカインストーム(免疫暴走)で、先に説明した免疫システムのT細胞が過剰に活性化し自身の免疫細胞に攻撃を加えたり、血管を傷つけ、血液が血管内で塊りとなり、血管を詰まらせ死に至らしめる。
治療方法としてはエクモ(人工肺)が不可欠になる。そんな映像をみて、国民は恐ろしさに固まってしまった。「エクモが足らない、医療崩壊が始まって病院に行けなくなる。」等々、恐怖のどん底のスパイラルに陥ってしまった。が、しかし、日本では何故か、重症者数と死者数が意外と少ない。その訳を本当の専門家は変異の仕組みで解説する。
短編小説 モノレールストーリー
モノレールに乗って 作・吉成 庸子
もうすぐ温かい春が来るという日の昼下がり一郎の母は天国に召されてしまった。
まだ彼は八才になったばかり。母は身体が弱く、床に臥せっている日もかなりあったが三度の食事や父と一人っ子の一郎の世話に手を抜くような事はなかった。小さな鉄工所を経営している父は仕事に忙しく、めったに家に居ることはなかったが…。でも一人息子を後継ぎにと考えている父は、まだ幼いころから一郎にはかなりきびしく接していた。
母は本当に優しく、一郎の記憶の中ではいつも母と一緒にいた時分しか浮かんでこない。そんな母が突然この世からいなくなってしまうなんて、八才の一郎にとってはとうてい信じられない事だった。そんな一郎を山形からかけつけて来た母方の祖母が、「かわいそうになあ、でもこれから先は元気にしっかり生きていかないけんぞ。
母様がいつも見守ってくださるのだから、だいじょうぶ」。と言いながら一郎の頭を幾度もなでてくれた。
祖母は半年あまり、一郎の家に住んでくれた。忙しい一郎の父に対するせめて当面だけでも役に立とうと思ったからだろう。それより一郎を一人にしておけないという気持ちが強かったにちがいない。祖母の料理は里いもの煮っころがしや魚の煮つけなどが多く、一郎はびっくりしたが、そのうちにどう研究したのか大きなハンバーグや焼餃子等が食卓に並ぶようになる。祖母のおかげで、一郎の淋しさは少しずつ消えていったが、山形もそうあけてはいられなかった。農作業の貴重な働き手の一人でもあったから。一郎の家には通いの家政婦さんが来る様になり祖母は山形へ帰って行った。
そして一年余り…父が結婚して一郎に新しい母が出来たのだった。三十八才というそのひとは、父とは初婚であり、美しい人だった。でも、一郎はその人を母とは認めたくなかった。かたくなな一郎の心を開かせようとその人も父も存分気を使っていたのだが、一郎はなつけずにいた。
家にいるのが嫌でその分野球にのめり込んでいっていた。父の留守がちな中、その人はあまり口もきかない一郎にオドオドしてばかり。
そんなある日、二人だけの気まずい夕食が済んだ後、その人があらたまって一郎に話かけて来た。
「明日の午後、私と一緒に出掛けて下さい。お願いネ」と言ったのだった。翌日、彼女が一郎を連れて行ったのはモノレールだった。母は家の比較的近い千城台駅から乗車して何も言わず座席に座らせた。
モノレールは亡き母とのたった一つの家の外での思い出だった。はじめのうち、一郎はなんでこの人とモノレールに乗らなきゃならないんだと腹立たしさを覚えていたが、絶対に下車しないでいつまでも黙ってモノレールに乗り込んでいるその人を眺めているうちになんとなく一郎の心がわずかずつ優しくなっていった。
「あっ、あれがそごうデパートだ」窓から指差し話しかけたのをきっかけに二人で自然に会話する様になっていた。「一郎ちゃん、仲良くしよう」その人が小指を出した。
「うん」二人はげんまんをした。その人の瞳は涙があふれていた。モノレールの中で一郎は新しく母親ができたことを再発見していた。あれから三十年余り、その母もなくなってしまった。でも二人の母は一郎の胸の中でしっかりと生きずいている。
市民ガイド
敬愛大学「震災満10年を考える講演会」
−東日本大震災から学ぶ私達の未来-
▼日時・2月20日(土)13時30分〜16時▼会場・敬愛大学稲毛キャンパス3301教室(参加費無料)【プログラム】★ごあいさつ・水口章(敬愛大学総合地域研究所長)★若者からのメッセージ・敬愛大学学生、卒業生(ビデオ出演を含む)★基調講演「3.11を学びに変える」佐藤敏郎氏▼申し込み・事前申込制・会場参加・オンライン参加とも、以下のURLまたはQRコードから、2月17日(水)までに申し込み(オンライン参加の方には2月18日までに詳しい視聴方法をメールでお知らせ)申し込みフォームURL
https://tinyurl.com/yxeskx7j
▼敬愛大学地域連携センターTel043-251-6364(担当:藤森)
第33回建国記念日を祝う千葉県民の集い
▼日時2月11日(木・祝祭日)初代神武天皇が御即位したとされる日・13時〜16時▼会場・千葉市民会館大ホール(500名様限定)入場料1,000円(高校生以下無料)▼問い合わせ・建国記念の日を祝う千葉県民の集い実行委員会Tel0473-291-5546(藤井)
ワンコインコンサート
クラシックギター(出演者 岡本拓也さん)▼日時・2月20日(土)14時〜15時▼会場・市美術館(定員・先着40人)▼料金・一般500円小学生以下100円(全席自由)▼申し込み方法・電話で文化センターTel043-224-8211、▼問い合わせ・文化振興財団Tel043-221-2411FAX043-224-8231
里山保全活動体験
竹細工や枝打ち、まき割りなどの体験を通じて里山づくりについて学びませんか。▼日時・2月27日(土)9時〜12時15分(希望者は14時まで、雨天時は28日に延期)▼会場・とみだの森(若葉区富田町696-1-2、集合・解散は富田さとにわ耕園)▼定員・20名(小学3年生以下は保護者同伴)▼申込方法・2月17日までにEメールで。必要事項を明記して
kankyohozen.ENP@city.chiba.lg.j
pへ
申し込みはFAXでも可。▼問合せ環境保全課Tel043-245-5195FAX043-245-5553
青葉の森公園芸術文化ホール(Tel043-266-3511)
能舞台縦横無尽ライブ
◎一噌幸弘 〜田楽散策(室町以前の音楽)再現と創造〜【演奏予定曲】稚児舞、田楽幻想、アシライ散策ほか☆出演・一噌幸弘、山田路子(笛)石川高(笙)芳垣安洋(打楽器)★トーク・一噌幸弘の笛と技について、こんちゃん/蘭照▼日時・2月11日(木・祝)14時開演
JAZZ ジャズハイオリン×津軽三味線〜
日本ジャズ、♪演奏予定曲・津軽じょんがら節、キャラバン、シンシアリーほか▼日時・2月14日(日)開演15時*全席自由2,800円
天満敦子ヴァイオリンコンサート
〜名器ストラディヴアリウスの響き〜【トークを交えた無伴奏プログラム】♪夢のあとに(フォーレ)♪カンタービレ(パガニーニ)♪望郷のバラード(ポルムベスク)♪中国地方の子守歌(岡山県民謡・和田薫編曲)▼日時・2月20日(土)開演14時
能舞台アフタヌーンコンサート
弦楽四重奏×打楽器ディオ☆メンバー長尾裕子・田口史織(ヴァイオリン)春木英恵(ヴィオラ)若狭直人(チェロ)久米彩音・稲野珠緒(打楽器)プログラム・八十日間世界一周・ムーンリバー他▼日時・2月21日(日)開演15時
第10回青葉能
▼日時・2月23日(火・祝)14時開演、解説・塩津圭介★演目・喜多流仕舞*清経、熊坂・和泉流狂言*川上・喜多流新作能*「鶴」
第126代天皇陛下お誕生日お祝い記帳会
令和元年5月1日即位をされた天皇陛下のお誕生日(2月23日)を県民こぞってお祝いいたしましょう。☆日時・2月23日15時30分〜17時☆会場・京成千葉駅前広場(天候により中止の場合がございます)参加費無料・お祝い記帳をされた方に楽しいふるまいをご用意しております▼主催・第126代天皇陛下御即位をお祝いする千葉県民の会、共催・千葉おかみさん会(会長・吉成庸子)
藤木大地カウンターテナーリサイタル
☆藤木大地があなたに贈るバレンタインスペシャルプログラム♪ピアノ:松本和将【プログラム】チャイコフスキー:ただ憧れを知る人だけが/ベートーヴエン:君を愛す/ブラームス:永遠の愛について/ほか▼日時・2月14日(日)14時▼会場・千葉県文化会館大ホール*全席指定3,500円学生2,500円(未就学児はご遠慮下さい)▼問い合わせTel043-222-0201千葉県文化会館
ギャラリー古島
「西洋民藝 民の手仕事・くらし展」2月5日(金)〜2月15日(月)*2月11日休廊。「-ガラスに描く光と風-石井康治創造の軌跡展」2月19日(金)〜3月15日(月)*2月25日、3月4日、3月11日(木)休廊☆ギャラリー古島・中央区春日2-25-11・2F(JR西千葉駅西友側徒歩1分)Tel043-243-3313 FAX 043-241-3041
今月の人
千葉混声合唱団名誉団長 椎名康子さん(83歳)
合唱団は癒しの場所
千葉混声合唱団は、来年結成70周年を迎える県内で最も名の通った合唱団である。
現在、千葉混声合唱団には約60人の団員が所属し、月5回の練習(主に小中台公民館)のほか、年1回の定期演奏会など、活発な活動を展開している。
千葉混声合唱団の名誉団長を務める椎名康子さんは、1971年の入団以来約49年間、同団の中心メンバーとして活動してきた。
椎名さんは幼少期からピアノに親しみ、結婚後は主婦業の傍ら個人ピアノ教室を主宰してきた。また、夫の仕事の関係で転勤が多かったところ、その先々で地元の合唱団に所属してきた。
椎名さんが千葉混声合唱団に入団したのは、夫の転勤で千葉市稲毛区に引っ越してきた時である。定期演奏会を開催している合唱団を探していたところ、その条件に合致したのが千葉混声合唱団であった。
ところが、千葉混声合唱団は、椎名さんの入団後しばらくして、諸般の事情で団員数が5,6人にまで減少し、存続の危機に陥った。そうした中、椎名さんがリーダーシップを発揮し、新たな指揮者を迎えたことで団員数が増え始め、1987年の千葉県合唱コンクールで金賞に輝くなど、黄金期を迎えた。
その後も、2018年にNHK・BSプレミアムの「新・BS日本のうた」に出演するなど、精力的な活動を続けている。
椎名さんは、千葉混声合唱団以外にも、「とどけ歌声被災地へ、東北大震災復興支援等のチャリティー合唱祭」の実行委員長を務め、これまでに9回のチャリティー合唱祭を主催し、計615万5,986円を被災地等に寄付している。
椎名さんは、「私にとって千葉混声合唱団は、癒しの場所である。日常生活で辛いことがあっても、合唱団に行くとほっとすることができる。生きている限り続けていきたい」と語った。
お問い合わせ 千葉混声合唱団 090−9327−7609 【取材:工藤正】
随筆 儀ちゃんが笑っているかな?
初春の陽はおだやかで、空は澄んだ青色、風もおだやかだ。
コロナがなかったら本当におだやかな元旦なのにと思いながら、私は家を出て千葉県護国神社に向かった。そのあと靖国神社にお参りする。
これが儀ちゃんが亡くなってからの私が欠かさない事の一つとなっている。儀ちゃんは特攻隊の生き残りだ。長兄も戦死している。そんな事からだろうか?生きている時は一回も欠かした事はなかった。自分は幸いにも生きて帰れたがたくさんの戦友は亡くなった。先輩・後輩ももちろんだけれど…。
戦争の事は私にはあまり話さなかったけれど、亡くなられた方々の尊い犠牲の上に今の幸せがあるのだというのは、折にふれて口にしていた。だから、何があっても元旦はお参りに出かけて行った。
私は儀ちゃんが他界してからこの彼の想いだけは継いでいかなければと、必ず護国神社と靖国神社へは詣でている。
二日は下の弟夫妻が子供三人を連れてグリーンタワーで食事会をする。
私は四人姉弟だが、妹が亡くなってしまったので弟二人の三人姉弟になってしまった。
上の弟は東京に住んでいるが、市原にある元々の古い家の管理もあるので、大変だと思う。
正月の集まりは、まだ儀ちゃんが元気な頃から始まっていた。儀ちゃんは末っ子のせいか、私を本当に可愛がってくれていた。
弟二人も儀ちゃん大好きで、よくなついて集まって来てくれていたものだ。甥達の子供もみんな大きくなり勉強よりスポーツで頑張っているらしい。
私はまあ元気でまっすぐに育つならと何も言わない。お年玉をくばる。それが目的なのだろうと思うがやはり家族が集うのは楽しい事と思っている。
六日の夜だったかな?私は集まりがあり出かけた。コロナの関係で大人数は止めにして四人の気心知れた人との飲み会だったので、お酒も大分飲んだ上帰りに砂利道で転んでしまった。古ひざを強く打ちつけてしまい、その後もしたたか飲んで楽しく帰宅したが、翌朝足が痛くて目が覚めた。
すごいビッコをひかなければならない。気になり近くのお医者様に行った。骨に異常がないが打撲がひどいと言う。杖を使用しヒョコタン、ヒョコタン歩いている。
けど私はあまりこの姿見られたくなくて、おとなしくしている。だって儀ちゃんが存命の頃、まだセーラー服姿の初恋の人がいて「一度会ってみたいんだよ」と儀ちゃんはいつもいっていた。
段々年月がながれていき儀ちゃんも八十才をいくつか過ぎた時、私はなんとか彼の願いを実現してやろうと、何人かと一緒にその女性も来て頂ける食事会をやる運びとなった。お料理屋さんに着いても儀ちゃんまるで落ち着かない。そのうち彼女が現れた。なんと…彼女は杖にすがってやって来た。話もそんなには盛り上がらなかった。仕方ない六十年振りの再会だもんね。「お父さん、会わずにいた方が良かったんじゃない」と私は聞いた。儀ちゃんは黙っていたっけ。
その事を思い出して私はどうも杖であるくのがダメだ。かっこうつけるわけじゃないけど。早くさっさと歩きたいと今、心から祈っている私だ。
櫻井俊雄物語(8) 転機となった牛乳配達
千葉の近代史を創った男の話 武田 弥太郎
千葉国体、両陛下のお宿がない!
「ニューパークホテル」と「グランドホテル」を建設
千葉県での国体は過去に二度開催されている。
平成22年の第65回国民体育大会は北海道と千葉県で開催されたが、それよりさかのぼること37年、昭和48年にも第28回若潮国体が千葉県で行われた。
冬季大会が岩手県と新潟県で、夏季と秋季大会が千葉県で開催された。日本体育協会理事や副会長、国民体育大会会長を務め、日本のスポーツ界に大きな影響力を持っていた山口久太に深い薫陶を受けていた俊雄は、昭和の千葉国体にもかかわることになった。
久太は国体開会当日、昭和天皇のご案内役などの重要な務めを果たすなどしているが、昭和の千葉国体開催が決まった折、千葉市には陛下にお泊りいただけるだけのホテルがないことが問題となった。
かつて軍都だった千葉市、市中心部には蓮池(当時は吾妻町、現在の中央二丁目から四丁目あたり)と呼ばれていた全国でも有数の花街があったことから、多くの旅館や料亭がひしめいていたが、ホテルはなかった。
国体会長である久太と、千葉県の国体責任者で、のちに知事になる当時副知事の川上紀一は、開催決定後、警備体制の面からも「陛下のお宿」問題に苦慮していた。
様々な事情で二件のホテルが必要だったことから俊雄たちは東奔西走し、結局、吾妻町で旅館業を営んでいた新庄さんと能勢さんにホテル建設を要請し、度重なる折衝の末、新庄さんが「ニューパークホテル」を、能勢さんが「グランドホテル」を建設することになり、千葉国体に間に合うよう建設が進められた。
関係者の協議の末、昭和天皇ご夫妻が「ニューパークホテル」に、皇太子ご夫妻(現在の上皇ご夫妻)が「グランドホテル」にお泊りになられ、「陛下のお宿」問題は無事に解決を見ている。
その両ホテルの一方が近年閉鎖されたことはとても寂しいと俊雄は嘆く。俊雄は千葉での若潮国体の前年、鹿児島県で開催された太陽国体に視察に出かけている。
翌年の千葉国体開会式で両陛下がお座りになる座席や調度品をどう用意するか、鹿児島大会の御座所のご様子を、ぜひ、見聞しておきたいと考えたからだった。
俊雄は視察の成果を生かして千葉国体での華やかな一面を醸しだすことに貢献ができたと思い起こしている。陛下のおそばでお仕えする立場の久太の一助になったのであれば幸であり、陛下のご予定の一端に少しでもお役に立てたのなら望外の幸せだったという。
千葉には国際規格のプールもなかった。俊雄は千葉市の総合運動場への水泳場建設にも尽力した。
ここで国体の水泳競技が開かれた。資金の確保、業者の選定、スポンサーの確保など、現在とは様々な制度が異なる中、人脈を生かして成功に向かって努力したという。
ただ、ここでも俊雄の性格が出てしまっている。なんの見返りも求めておらず、ほとんどすべて手弁当で駆けずり回ったことだ。いまの政治家たちならどうするだろう。
議員報酬をもらいながら大して役に立たないか、錬金に走る者たちが多い中、滅私奉公的に公のために働く政治家がほとんど見当たらないと俊雄は嘆いている。
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