130,000部発行
2020年11月6日
通巻第290号
年間郵送購読料3,000円
稲毛新聞
 発行責任者/佐藤 正成  発行/(有)稲毛新聞社 〒263-0043千葉市稲毛区小仲台2-5-2 TEL043-256-4414(代)FAX043-256-4494
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随想 校歌を考える
鎌ケ谷市・元稲毛小校長 島津幸生
 どこの学校にもあるのが校歌である。同じ校歌でも自分が出た小学校の校歌はなぜかいつまでも忘れせずに唱うことが出来るのではないだろうか。
 江東区立東陽小学校、東京の下町深川にあり、昔から「粋は深川、威勢は神田」と言われている場所である。と言っても入学時はまだ東京大空襲の跡が残っていて講堂の屋根は落ち床のタイルがモザイクになっていた。
 そのモザイクは死んだ人の血の跡でつらい思い出だ。東陽小は三浦哲郎の「忍ぶ川」と言う小説のモデルになっている。校歌は「小松ケ原の若緑根ざしたしかに生いたたば千代万代に動きなき国の柱となりぬべし。ますぐに立てるくれ竹の正しき節にならいつつたわめど折れぬ心持て学びのわざをはげむべし」で格調高い校歌であった。
 日本で最初につくられた校歌は明治11年(1878年)に東京女子師範学校(現在のお茶の水女子大学)でつくられたもので現在も校歌として歌われているとのことだ。
 各学校に校歌が作られるようになったのは学校が増え就学率が高くなって来た明治40年代のことだ。(汐文社ビジュアル版学校の歴史より)
 退職時、稲毛小が丁度130周年と言うこともありいろいろ調べたところ創立90周年の記念誌に校歌のことが書かれていた。それによると、昭和28年(1953年)当時未だ校歌がなかった緑町中学校の校歌を松原至大氏が頼まれ、出来上がった校歌を持参した際、稲毛小卒業生であった大野義男氏に会いたい旨の連絡があり、会ったことを当時の稲毛小の校長平野尚正氏に話したところ稲毛小も校歌がなかったので松原氏に依頼して欲しいと頼まれ出来たという手記だった。作曲は松原氏の紹介で当時新進作曲家の芥川也寸志(芥川龍之介の三男)で創立80周年記念祝典で発表され今日に及んでいる。
 芥川也寸志年譜・作品目録によると、緑町中・稲毛小の他、市原市立八幡中・同平三小の4校が松原氏の作詞であった。
 校歌は学校としてのまとまりを強めるために作られるが、多くは所在地周辺の自然や地理風土など具体的な地名をつけて作詞されたものが多い。
 新設時の校長が作詞したり著名な方にたのんだりする場合がほとんどであるが公募したり、在学の子どもたちが作った校歌も最近ではあるようだ。
 卒業生がいるかぎり歌い継がれるのが校歌である。出来た経緯は別としてどこの小学校の校歌もそこを卒業した者にはおもい出を含めた故郷の歌としての感があるのではなかろうか。

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